親鸞会 滋賀

【特集】蓮如上人のご生涯

画期的な『御文章』布教

 蓮如上人がお生まれになったころの本願寺は京都にありましが、実に、さびさびとした状態でした。本堂の広さ、わずか三間四面(約18畳)。上京した門徒が、本願寺を眺めて失望し、別の寺へ移る例もあったほどでした。

 しかし、蓮如上人が、43歳で、本願寺8代法主に就任されるや、様相が一変します。

 まず、革新的な布教方法として登場したのが『御文章』です。『御文章』は、蓮如上人が手紙の形式で書かれた法話集です。相手を限定されず、平仮名交じりの分かりやすい文章で書かれ、多くの人たちに、朗々と代読されました。

 また、『御文章』は、携帯性に優れ、仏法を伝える大きな力となったのです。それは、近江商人である堅田門徒の活躍に顕著です。彼らは、東北、北陸から山陰地方に至るまで、幅広い行商に回りながら、『御文章』を読み聞かせ、真実を伝えました。一通の御文章が、次々に書き写されて、数十、数百と膨れ上がり、山を越え谷を渡って、全国へ拡大していきました。そして、感激した多くの人々が、蓮如上人を慕い、聞法に馳せ参じたのです。

 しかし、この急激な発展は、他宗の、ねたみ、反発を買いました。特に、近江(滋賀県)に地盤を持つ比叡山延暦寺を刺激し、弾圧の危機が、日ごとに高まっていったのです。

比叡山より大津|親鸞会 滋賀
比叡山より大津を望む

 

相次ぐ僧兵の襲撃

 寛正6年(1465)1月10日。ついに、延暦寺の僧兵約150人が、京都・東山の本願寺を襲撃しました。暴徒は、さんざん破壊をほしいままにし、愛山護法の門徒が駆けつけた時には、すでに退散したあとでした。蓮如上人は、親鸞聖人の御真影とともに、かろうじて避難されましたが、僧兵たちは、執拗に上人のお命を狙い続けました。蓮如上人が法主を継がれて8年後、51歳の出来事でした。

 以後、4年間、蓮如上人は、琵琶湖周辺を転々とされます。上人が滞在される所には、自然と参詣者が集いました。すると比叡山の僧兵が、焼き打ちに来る。その繰り返しであったのです。

 門徒への、直接の迫害も多く、僧兵たちは、真宗門徒と見ると金銭をゆすり、御本尊を焼くなどの暴行を加えました。曲がりなりにも信教の自由が保障された今日からは、想像できない、無法な時代のことです。善知識(正しい仏教の先生)も命懸けならば、聞法する門徒も、命懸けであったのです。

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