親鸞会 滋賀

【特集】蓮如上人のご生涯

不審火で吉崎炎上

 ところが、吉崎御坊へ参詣者が急増するにつれ、またもや、他宗、他派の、ねたみ、そねみ、を買いました。

 時代は乱世。京の都は、戦のちまたと化し、越前、加賀とて、戦乱の圏外ではありません。何が起きても不思議ではなかったのです。

吉崎御坊跡 親鸞会 滋賀
吉崎御坊跡地(福井県)

 不穏な空気が漂う中、ついに大事件が起きました。文明6年(1474)3月28日、風の強い夜のこと、吉崎御坊の南大門あたりから、突然、火の手があがり、たちまち、九つの多屋をなめつくしました。猛火は、さらに、本堂を押し包んでしまったのです。

 蓮如上人はこの時、奥の書院で、親鸞聖人ご真筆の『教行信証』証の巻を拝読しておられました。突然の出火に驚かれ、火中を逃れられた時のこと、「ああ、しまった!蓮如、一生の不覚」
と叫ばれ、赤々と燃え盛る奥の書院目掛けて走りだそうとされました。驚いて上人の衣の袖を引いて止める弟子に対し、「経櫃は無事にご避難申したが、『教行信証』証の巻は机の上に出したままなのじゃ。祖師聖人ご真筆のお聖教、一巻なりと、蓮如の時に焼失したとあっては、末代までの不面目……」。
 上人の悲痛なお声です。

 その時、すっと前へ進み出た、若き一人の弟子がありました。本光房了顕です。
「上人さま、そのお聖教は、了顕の命に代えてお救いいたします。ご安心ください」
と、叫ぶが早いか、猛り狂う炎へ駆け込んでいきました。

 やっとの思いで、書院へ到着してみると、果たして『証』の巻は、まだ燃えずに机の上にありました。了顕、小躍りするがごとく喜んで、脱出しようとした時、くすぶっていた襖が、一度にパッと火を吹き、行く手を遮断してしまったのです。もう、逃れるすべはない。

「たとえ、この場に命尽きようと、もとより覚悟のこと。しかし、ようやく手にしたお聖教、お護りせねば、了顕、死んでも死に切れぬ」

 やがて、了顕は、自らの腹を切り、内臓の奥深くにお聖教を収める決意をしました。
「地獄一定の本光房了顕、阿弥陀仏の本願に救われた幸せ者でございます。蓮如上人にお会いすることができなかったら、今生も、自業苦から地獄への綱渡りになったでしょう。やがて死にゆく露の命、法のためなら悔いはございません。『証』の巻は、必ず上人さまのお手元にお届けいたします。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

 念仏を高々と称えた了顕は、持参の短刀を逆手に取り、十文字に腹を切り開き、自らの手で、お聖教を収め、二つ折になりました。

 かくて、東の空が白むころ、吉崎御坊を焼き尽くした猛火も、ようやく収まり始めました。やがて、焼け跡からは、『教行信証』をしっかりと抱いた、本光房了顕の遺体が発見されました。五体の水分が『証』の巻を、紅蓮の炎から護ったのです。

「如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 骨を砕きても謝すべし」

 恩徳讃を、そのまま体で示した、本光房了顕の殉教でした。蓮如上人の元には、了顕のように、真実を知り、真実に生かされた多くの若者が、布教最前線で活躍していたのです。

>次 浄土真宗の「繁昌」とは


浄土真宗親鸞会 滋賀:トップ
講演会のご案内蓮如上人のご生涯お問い合わせリンク集